山北町の歴史を振り返りながら町の特徴を紹介する「山北町ってどんなところ?」の第3弾では、富士山の噴火や関東大震災の被害状況を見ていきましょう。
(※この記事は、山北町教育委員会発行の「歴史・文化から学ぶ わたしたちの山北」や山北町史などを参考に作成しました)
16日間降り続いた火山灰
1707(宝永4)年11月23日に発生した富士山の噴火(宝永の大噴火)は、山北町にも多大な被害をもたらしました。
噴火直後には高温のまま噴出された土砂が降り注ぎ、田畑には数十センチ~数メートルの火山灰が堆積。作物は全滅したということです。
山北町史には以下のような記述があります。
「宝永4年11月23日四つ時(午前10時ごろ)に、凄まじい振動と大地を覆すほどの雷鳴がなり、人間だけではなく、牛馬諸鳥にいたるまでたちまちに落命するのであろうかと感じた程であった。この日は富士山より噴火した焼石が6~7寸(約20センチ程度)堆積した。(中略)こうして堆積した砂が田畑野山を一面の砂場と変えたのである。このため、ちょうど育成期にあった麦作をはじめ植え付けていた諸作物は放棄するしかなく、百姓たちはまさに途方に暮れる状況に追い込まれていったのである」
火山灰は12月8日までの16日間にわたって降り続け、昼も夜もわからない状態だったようです。田畑に降り注いだ火山灰を取り除くことは至極困難で、「天地返し」という手法が取られました。これは、養分のある土を掘り起こした上で、火山灰を下部に埋め戻すというもの。現在になっても河村城跡の周辺など、山北町内の至るところでその痕跡が見られるということです。
関東大震災では47人が犠牲に
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でも、山北町は大きな被害を受けました。全壊した家屋は204棟、死者は47人。小学校は倒壊を免れましたが、下校途中の児童2人が道路崩壊のために亡くなり、負傷者は数えきれないほどだったという記録があります。
また、9月3日までに665回もの余震が記録され、町中心部にある室生神社の社殿倒壊や、機関車の脱線、山間部での土砂崩れなど町内全域で甚大な被害が出ました。
宝永の富士山大噴火以来の「天変地異」に見舞われた山北町。
職を求めて県外に出る人もいたそうですが、先人たちは活路を見いだし、現在の山北町につなげてくれました。