山北町の歴史を振り返りながら町の特徴を紹介する「山北町ってどんなところ?」の第2弾は、平安時代の末から鎌倉時代にかけて山北町と周辺地域を治めた河村一族のお話。
河村一族はその後全国に散らばり、山北町は「河村(川村)姓」発祥の地とも言われています。
(※この記事は、山北町教育委員会発行の「歴史・文化から学ぶ わたしたちの山北」や山北町史などを参考に作成しました)
流鏑馬披露で領地復帰
山北町は平安期には「河村郷(ごう)」という地名でした。
平安時代の末、秦野地方を支配していた波多野遠義(はたのとうよし)の次男、秀高が「河村郷」に本拠を据えて、河村秀高と名乗ったのが「河村一族」の始まりと言われています。
秀高の息子・義秀は、石橋山の合戦で平氏側について源頼朝に勝利を治めますが、その後の頼朝勢の台頭によって河村氏は領地を没収されてしまいます。
義秀は、処刑命令まで受けますが、1190年に鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)で優れた芸を頼朝に見せて感動させたとして、河村郷の領地復帰を許されたということです。
各地に河村氏の末裔
時は流れて、後醍醐天皇による「建武の新政」(1333年)の後、南北朝時代が訪れると河村氏は新田義興(よしおき)らと南朝側について足利尊氏軍との抗争が激化していきます。
河村氏と新田氏は河村城に籠城して抵抗を続けますが、尊氏の家臣に敗れ、河村城から逃げ延びたそうです。
こうして、河村氏は各地に広がり、「河村(川村)姓は山北町が発祥」と言われています。
タウンニュースの記事によると、全国に広まった河村氏の末裔を集めた「河村城まつり」が開かれるなど現代になっても「河村一族」の交流は続いているということです。